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平成の大横綱 朝青龍

ここ数日世間を騒がせている相撲のネタで少し真面目に書いてみようと思います。
ちょいとほろ酔い気分なので、まぁ、許してくださいな。
まずは貴乃花親方の理事就任。
これは‘おめでとうございます’の一言に尽きる!
‘貴乃花親方が理事になったこと’にでは無く、
‘角界を変革させる必要がある’という意思が存在するということに。
安治川親方を引退させなかったことで、ギリギリのラインで角界の懐の深さを保ったんじゃないでしょうか。
関取は侍であるべきだ!
サムライこそ古き良き日本の象徴であると考えています。
そして、今の日本人には侍精神(武士道精神)が必要であると切に感じています。
奇しくも今年の大河ドラマは‘坂本竜馬’
私の本棚には中学生の頃から集め始めた坂本竜馬の本が陳列してあります。
スタートは‘おーい竜馬’
一番のお気に入りは司馬遼太郎氏の‘竜馬が行く’
高校卒業から大学入学までの空白の1年。
その時に偶然苦楽を共にした友人が高知市出身だった為、お土産に頂いた10cm程の竜馬像が本棚の見張り番。
酔っ払いなのでいきなり話が脱線したぞ(;・∀・)
私の物事の判断基準の多くを担っているのが幕末の志士の思想(だと勝手に思っている)。
我が身を省みず国の行く末を本気で考えた素晴らしい武士だったと理解しています。
その中でも、日本人同士の流血を嫌い、大政奉還という突飛な考えを導き出した坂本竜馬は大きな優しさを持っていたのではないかと。
また、それを受け入れた徳川慶喜が水戸藩の教えの中で育ったのは単なる偶然なのだろうか。
水戸藩士は桜田門で井伊直弼を討ったんですもんね。
私の中の武士像というのは、自己の為ではなく自他の為に生きるものとして形作られています。
そして、何故か関取も同じ存在として認識してしまっているのは、日本人としてのDNAなのか
はたまた歳をとっただけなのか・・・。
いずれにしても武士や関取にしてみたらいい迷惑なのは間違い無さそうではありますな。
一昨日のニュースで貴乃花親方が
‘関取はたとえ空席であっても公共の場で座ってはいけない!’との
自己の関取像を語っていました。
私が勝手に考えていたことを、当事者がしっかりと認識していたことに嬉しくもあり恥ずかしくもあり。
武士は食わねど高陽子
簡単に言えばやせ我慢ってことですが、自らを律する素晴らしい教えなのではないでしょうか。
ちなみに、私の座右の銘はそのまま‘やせ我慢’です。
朝青龍問題に関しては完全に角界と親方の責任だと思います。
関取とは言えアスリートであることは間違い無い訳で、ただ強くありたいと願うのは当然のこと。
横綱まで上り詰めた朝青龍の努力が尋常なもので無かったことは容易に想像できます。
当人は強くなることだけを考え、周りが心を育てていくものではないかと思うんです。
極真空手の創始者である大山倍達氏の言葉で
‘空手を始めるきっかけはケンカに強くなりたいで良い’
‘強くなりたい一心で稽古を続けていくうちに空手に先手無しという心を育てるのが修行なのだ’と。
貴乃花に憧れ、貴乃花を尊敬してただただ強くなりたかっただけのモンゴルの少年。
その大きな才能を受け止めきれるだけの器が今の角界に無かっただけのことなんじゃないかな。
闘争心に溢れた鋭い瞳が時折見せる優しい眼。
全ての責任を本人のせいにするには、29歳の青年には荷が重過ぎるんじゃなかろうか。
一相撲ファンとして貴乃花親方の今後の活躍に期待したいところである。
いつの日か貴乃花親方が理事長となり、朝青龍関が理事なんてことになったら素晴らしいなぁ。